流浪の民「サンカ」は古代日本を知っていた?

流浪の民「サンカ」は古代日本を知っていた?

サンカ」は、かつて日本の本州各地の山地に住んでいたとされる放浪民の集団である。

移動の容易な簡易テント

歴史学者の多くはサンカの存在について積極的に研究対象とはしていない。理由として、サンカは日本の歴代の中央政権との関わりあいがなかった事、少人数で構成され、遺跡・遺物など歴史的価値のある資料の類がほとんど残されていない。 一部の民俗学者の調査のみに限られ その定義についても論理的科学的根拠がなく、単なる流浪の民又は 賎民(せんみん) として扱われてきた。

昭和に入り戸籍登録の都合上、役所による呼称 は住居を定めない浮浪漂泊者、野非人の群れとする「サンカ」と記述されていた。 警察による呼称も例外なく「山窩」とされ、里に定住する村人から物を盗む犯罪専科の集団として 警察関係では「山窩」と記述されている。

研究者による呼称は、どれも「サンカ」とされてている。

基本的には、地域の里の村人との物々交換で生活しており、「ミナオシ」「テンバ」と呼ばれるサンカは箕(みの)、かたわらささら、箒の製造、行商、修繕などでわずかな収入を得ていたとされる。

「サンカ」は自分達の呼称を仲間と言う意味で「けんた」と称し、河原にテントを張って生活する一団を「せぶりけんた」、一定の宿所を持っている者を「どや付けんた」と称していた。

「サンカ」という言葉が現れたのが、江戸時代末期(幕末)の文書が最初であるが、北海道の名付け親でもある探検家の松浦武四郎の著書にサンカに命を救われたとの記述がある。自らサンカと名乗ったわけではなく、著者により単に「山に住む人」という意味で使われていた。

サンカにまつわる諸説

漠然とした話としては、下記のような説明が ウィキペディア などにも書かれている。

古代難民説

サンカ(山人)は、原日本人(あるいは縄文人)であり、大和王朝により追いやられた古代日本の原住民族であったとする説。

現在ではこれを主張する研究者は殆ど無く俗説として広まってはいるが、偽書とされる古史古伝などの記述の中には、駆逐又は迫害を逃れた当時の原住民族や王朝の落人が隠れ住んだものなどと思われる記述がある。

中世難民説

室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源とする仮説で、「三家」、「三界」、「坂の者」などを根拠としている。古い起源の言葉が語源であるためある程度の説得力を持つと考えられているが、江戸時代末期にあらわれた「サンカ」と言う言葉との因果関係は不明である。

近世難民説

江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱期に、山間部に避難した人びとであろうという意見。サンカに関する記述が、天保の大飢饉の時最も苛酷な状況だった中国地方で登場することから、沖浦和光が主張したというもの。

フィクション説

流浪民サンカは三角寛が書いた小説が基であるとする説で、サンカという言葉自体は官憲の文書や古文書にも存在しているものの、いわゆる乞食や被差別民全般を意味する蔑称であるとする説。

また、中国地方で定住しない貧困層(被差別民)を意味する「サンカという方言」が、明治政府に警察として多数雇われた長州藩の元藩士により長州の方言が全国に広がったものではないかという説。

いずれにしても、万人が納得できるような資料がない以上どれも推測の域を出ないとされているのが現状です。

正統竹内文書に見る、「サンカ」とみられる人たち

第73世竹内宿祢を継承していた竹内睦奏氏(令和2年1月逝去)の著書「正統竹内文書」や自身の講演での説明などによると、このサンカについては原日本人の生き残りの末裔であるとの興味深い話があります。

原日本人とは

竹内文書によると、世界各地へと旅に出たスメル族が各所で文明を築きある理由から一部の民族が再び聖なる日本の地を目指しユーラシア大陸横断ルートやインドシナを通る海洋ルートを通って日本へとたどり着いた。

それらの人々は日向族(後の大和族)や出雲族となり、両勢力による大和の国での覇権争いが拡大していき、後の統一王朝「大和族」となっていく。

日本列島では、それまで平穏に暮らしていた原住民族は各所で独自の民族を統括するいくつもの国家が存在していた。

例えば、

九州西南部の熊襲(くまそ)

宮下文書に記録されているとされる古代富士王朝

現在の富山・尖山にあった、翡翠文化を持ち東アジアの首都と呼ばれ天の浮船(あまのうきふね)を持っていたとされる越の国

東北(蝦夷)王朝と言われヲシテ文字で書かれた「ホツマツタヱ」が残るとされる日高見国(ひだかみのくに)

これらの民族は、前述のような古代日本を離れ大陸へと進出し、ユーラシア大陸の西・中東やヨーロッパで文明を築いたが支配階級による迫害や戦争などで地獄と化したその地を離れ再び日本へと帰還したスメル族の末裔である日向族や出雲族とは違って、日本の地で営々と平和な国家を築いてきた居残り組であったとされる。

彼らは、日向族と出雲族の覇権争いそして国譲りによる出雲族の吸収、その後の神武東征による統一大和王朝成立の陰で戦いに敗れ討伐されたり散り散りになりながらもその支配を嫌い逃れた者たちが多くいた。

彼ら原日本人と思われる古代縄文人は、それまで互いの国家間・民族間の大きな争いや戦争などなく割と平和・穏便に暮らしていたと思われる。

各々独自の生活文化や文字を使っていたと考えられ、数多くの種類がある神代文字や縄文土器の文様(これはある種の記号を表していると竹内氏は語っている)などがその痕跡を示している。

縄文土器

そして、彼らの逃亡ルートとも呼ぶべき足跡は北日本から現北海道そして大陸経由で北極海を渡り北アメリカ大陸にまで及んでいる。

ネイティブアメリカンの伝承には、古代日本の神々と酷似したものがあるのもそのためだという。

神代文字については、「そもそも神代文字とは何か」をご覧いただきたいと思います。

しかし、すべての敗者たちが海外へと逃れていったわけではない。

正統竹内文書では、目立たぬよう少数単位で山間部に隠れ住んだ者たちが「サンカ」と呼ばれる人たちのルーツであると語っている。

サンカの生活

竹籠・笊などの道具つくり

「サンカ」と呼ばれる人たちは数十人単位で一つのだんたいを構成しており、そのような団体(グループ)が日本各地に存在していた。

彼らは基本的には自然から生活に必要なものを得る、しかし定住せず田畑開墾をしない。 竹や植物を巧みに利用し、蓑・笊・篭などの生活用具をつくり、里に定住している村人との接点と言えば物々交換をしたり、わずかな収入を得る時のみに限定され決して深い付き合いなどなく寡黙であったといいます。

悪い噂を立てられたりもしたが、その本質は正直で心優しく欲がなく犯罪とは無縁であったとされている。

彼らは何故そのような生活をしていたのだろうか。

じつはこの「サンカ」とよばれる各グループは、単独で各々勝手に行動していた訳ではなく、独自の方法を使い常に互いに連絡を取り合っていたといわれている。

一般的には、彼らは文字を持たなかったとされているが、その根拠は書物・手紙の類が一切なかったという理由だ。

その地を離れ移動するときには、石や木を利用して記号とも思われるような印や暗号を残していったそうである。

しかし竹内文書を見る限り、特殊な方法で互いにグループ間で連絡を取り合っていた事、そもそもバラバラになる前から文字文化を持っていた民族である事、中央政府に敢えて接することなくまるで忍者のように山人(やまびと)としてひそかに暮らしていた事などを考えると、祖先の伝承を書きかえられることも無くゆがめられることも無く 累累 と伝え残し自らの 歴史を正確に残そうとしたのではないだろうか。

残党討伐を逃れることは、いかに密かに生き延びるか、文字や書物を使うことでそのるーつの発覚を恐れ口伝伝承で自分たちの使命を子孫へと伝えてきたのかもしれない。いつかわが民族の復興をと願っていたのかもしれない。

よく知られているのが、独自の言葉だ。

「サンカ言葉」といわれ、一説には日本語の変種であると言われているがこれも古代倭(やまと)言葉の一種であったとも考えられる。

使用していた記号暗号なども、豊国文字に似ていることからそのルーツではないかとの見方もできる。

実際日本語は、その語族や変種言語・方言などを含めると、数十種類が存在している。 神代文字を含めると更に多種多様な文字言語が存在していたとされる。

現在では母音は5文字となっているが、古代縄文時代では8音あったとされており、80音の「音魂」の組み合わせが神に通じる言葉とされていたのです。

昭和の中頃までは存在していたという「サンカ」と呼ばれる人たち、今ではその姿を見ることができなくなってしまいその真実のルーツも謎のまま消え去ってしまうのだろうか。