般若心経って何ですか!(1)

般若心経って何ですか!(1)

般若心経を唱えるとどうなるのか・・。 効果はあるのか!

修行僧ではないごく普通の一般人である私たちにとって、仏教典とは一体どんな意味を持つものなのでしょうか。

どう理解したらよいのでしょうか・・。 お葬式や法事などで聞いたり見様見真似で読んだりはしているけれど、何らかの力があるのだろうか。

信じる信じないは別としてこわ~い思いをした時についつい この般若心経を唱えたくなってしまうという方は結構いるのではないでしょうか。

あるいは、南無妙法蓮華経 だったり、南無阿弥陀仏 かもしれませんね。  それって本当に何らかの効果があるのでしょうか。

仏教典ということは、悟りに至るためのお釈迦様の教えを後の弟子たちが書き記したものということくらいしかわかりませんね。

ということは、何か魔除け的な文言(や呪文)ではないように思えたりもします。

梵語やカタカムナのような、その音そのものに力が込められている訳ではないような・・・。

―じゃあ、覚えたり唱えたりしても意味がないのですか?・・

そういう訳ではありません。 知ることは大切ですし、理解することでそれが私たちにとってどのような存在なのかがわかるかもしれません。

自分にとって役に立つのか立たないのか、ほんの少しだけかじってみましょうか。

そもそも般若心経って何だ。

般若心経とは、300万文字(16部600巻)にもおよぶ般若経典の中のひとつ、大般若波羅蜜多心経 の核心となる部分を僅か278文字に凝縮し、大乗仏教において特に重要な「空(くう)」の教えを説いているものです。

仏教には、大きく分けて二つに分類されているのはご存知の方も多いでしょう。

ひとつは、上座部仏教 :お釈迦様の教えに従い厳しい戒律を守ることで自身が先ず解脱しそしてその力で衆生を救済するとを目指す者。 従って、出家し修行した一部の者のみが救われると云うことで小乗仏教ともいわれますが、この呼称は一般の衆生(大勢を救う)ということに相対する蔑称のようなものであまり使われることはありません。

もう一つは、大乗仏教 :上座部仏教に対し、一般衆生にも分かりやすく教えを説き在家信者として救いの道が誰にでも開かれるべきとの考えを中心としたものです。(大勢が彼岸に向かう舟に乗ると言うことですね。)

日本にある仏派は大乗仏教に類するもので、般若心経は 真言宗・天台宗・禅宗など、仏教の多くの宗派で読まれています。般若心経を読まない宗派(浄土宗や日蓮宗など)もあります。

全部で16部600巻にも及ぶ仏経典すべてを読解することは、平凡な私たちには到底無理でしょう。本職の僧侶ですら経典を目の前にかざして左右へとパラパラとページ送りをして読んだことにすると言う、所謂手抜きをしていますね。

大乗仏教においては、少しでも多くの人たちを救いたいという思いがありますから、大量の聖典の中の釈尊の教えの核心部分だけを抜き取り278文字に短くまとめ編纂し、誰でも読めるようにしよう・・としたものが、この般若心経なのです。

般若心経の由来と歴史

正式には「大般若波羅蜜多経」と呼ばれ、 般若波羅蜜多 はサンスクリット語の「プラジュニャーパーラミター」という言葉の読み音を漢字にあてつけたものとなっています。

般若心経がインドから中国に伝わったのは、630年頃といわれています。
中国の僧侶である 玄奘三蔵は、仏教の聖典の研究のためにインドへ向かい多くの経典や仏像を持ち帰り、これらを漢訳しました。

現在、日本において広く読まれている般若心経は、漢訳されたものの一部というわけです。

因みに 「プラジュニャーパーラミター」 とは、煩悩を脱し涅槃の境地に至る彼岸つまり悟りに至るための、永遠不変の仏の智慧(ちえ) という意味です。

「人間の知恵」と「仏の智慧」とは、根本的に意味が違います。

般若心経は、主に4つの項目から構成されている。

1つ目の項目:観音自在菩薩について、弟子であるシャーリプトラ (舎利子) に、その教えを説く場面から始まります。

2つ目の項目:シャーリプトラ(舎利子)へ、「空」の思想について説いていきます。

3つ目の項目:「空」の思想についてさらに説明を深めていきます。

4つ目の項目:そして最後に、真言(マントラ)という特別な言葉そのものが唱えられます。

「空」の思想の真髄とは

私たちは日常生活の中で、さまざまな苦しみと向き合っています。

しかし、これらの苦しみは元々自分の外側から押し寄せるものではなく、実は自分自身への執着から生まれると考えことから始まります。

般若心経の中心となっているのは、大乗仏教の「空(くう)」の思想です。
経典では、 達観した 観音自在菩薩についてさまざまな事象を例に挙げ(方便を駆使)しながら、すべてのものに実体がないこと(空)を説いています。

これには、私たちの肉体や、感じること、思うこと、行うこと、認識することを含め、ありとあらゆるものごとが当てはまり、それらを総称して 五蘊(ごうん)と言います。

五蘊とは、色・受・相・行・識 の五つの事で

(しき):すべてのもの(物質)は固有の本質を持たず、常に流動変化していくものである。

これは存在する物体・(質)形あるものの本質を示しています。

(じゅ):感受作用であり、肉体的生理的感覚を表す。

(そう):意識し思う作用。認識される対象が、認識された象(かたち)の状態を表します。

(ぎょう):医師とその結果で、心が一定の方向へ働く事。

(しき):認識作用、区別振り分けなどなどの固執。

「色」による物質的作用と「受相行識」による精神作用により、自我が生成されその自我による「欲」に囚われることで、人は苦しみを自ら作り出す・・というものです。

そんな事 言われてもねぇ・・・。

しかし、般若心経で説かれているのは、それだけではありません。
是諸法空相  つまり「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」・・・ 「不生不滅 不垢不浄 不増不減 」 について、この後考えてみたいと思います。

般若心経の全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

解説・・考えてみよう。

般若心経は、お釈迦様と弟子であるシャーリプトラとの対話という形式になっています。
「舎利子(しゃりし)」とはシャーリプトラのことで、「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」は観音菩薩のことです。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

仏説は、仏の説いた教え

摩訶:大きく偉大である事。

般若 :永遠不変なる仏の智慧

波羅蜜多 :彼岸に達するつまり悟りに至る境地を表す。

心:真実の。

経 :教えの言葉。

であることを宣言します。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩は真実に目覚める智慧の修行を究められ、空の悟りの境地を知ることで一切の苦しみから救われる道を示された。

照見五蘊皆空   度一切苦厄

まず、観音菩薩は「五蘊(ごうん)」には実体がないと説いています。
前述したように、五蘊とは色・受・想・行・識という5つの要素であり、これらは人間の意識のもとになっているといわれています。
つまり、人間の肉体や、感じること、思い、行い、認識は、すべて実体がないというわけです。

そして、さらにシャーリプトラ(舎利子)に語りかけます。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空   空即是色

すべての苦しみを生み出すもの、 (目に見える物体)には実体がないとしたうえで、さらにそれゆえとはでもあるともいい、単にまったくなにも存在しないという虚無主義の考え方すらも否定しているのです。(否定の否定による肯定)

「形あるすべてのものに実体がないのであれば、その反対に、すべてのものはあらゆる形をとることができる」と。
そしてそれは、五蘊を持った人間についても同じことが言えるといいます。

受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相

受・想・行・識 についても、色と同様にその姿かたち(象)は、実態がない。

法(ダルマ)とは、インドのダルマの訳語でインド発祥の全ての宗教に共通する多様な意味を持つ主要な概念で、空であると説いています。

つまり、宇宙の法則は空であるが無ではないと云うことらしいです。  あるのかないのか 一体どっちなんだと言いたい・・!

「相」は前述していますが、人間においては6種の知覚(眼耳鼻舌身意)によってとらえられる対象でありそのあり様を表す。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

これは六不の教えと言われています。

実体がなければ、生まれることも、滅びることもありません。汚れることも、清らかであることもなく、増えることも、減ることもないのです。

真実の世界においては、形あるすべてのものや人間のあらゆる感覚もなければ、悩みや苦しみという概念もありません。
このような「空」の思想を知る仏は、真理に目覚めて心安らかな存在でありつづけます。

そういわれると、ふとある逸話を思い出しました。 うろ覚えなのであまり正確ではありませんが、概ねそんな意味だと考えてください。

ある不心得者がその生涯を閉じ神の下に召されていった、その者はてっきり自分は地獄に落とされるだろうと内心びくびくしていた。

ところが、神の前にてひざまずいているとその予想に反し暖かく優しい光に包まれて、神の言葉を聞くことができた。

神は優しく語りかけ、その不心得者は心底生前の自分の行いを悔い改めることができた。

神はすべての人間に救いの手を差し伸べてくださるのです、そもそも神を知らぬ凡人や悪人こそが救われなければならないとも仰られるのでした。

安堵したその者がふと見ると、向こうの方で何やら泣きわめいている者たちがたくさんいた。 その者は神に問いかけました。

すると神はこうおっしゃられました。 

彼らは、生前教会の教えに従い、神を信じひたすら信仰に努め、自らを律し人生を全うした人達であると・・。

その者は、更に神に問いかけた。

では、なぜあんなに泣いているのでしょうか・・と。

彼らは死後極楽へ召され、不心得者や罪人とは違う扱いを受けるべきと考えていたようで、なぜ悪人や凡人などと同じ世界にいるのかが理解できず、自分たちの生前の行いは無意味だったと嘆いているのだと・・・神が仰られた。

これは皮肉を込めた話でもあるのでしょう。

また、仏教の中にも 「凡聖一如(ぼんじょういちじょ)」という言葉があります。

凡人も聖者もその本質においては、皆同一である事。迷うものも悟ったものも同じである事。

悟りの境地について説いたあと、最後に真言(マントラ)を伝えます。

般若心経の終盤に唱える「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は、悟りに至る真言(マントラ)です。
したがって、この部分は解釈することができませんのでそのまま言葉にします。

敢えてその意味とするならば・・・

“往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ” そして仏の教えに帰依します・・。という意味で翻訳されています。

続きは次回に・・・!

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