定年退職年金生活者、「雨ニモマケズ」宮澤賢治の詩に思う。

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社会に出てから四十数年、懸命に突っ走ってきた今思うこと。 確か、小学校の国語の時間に、読んだ記憶があります。

宮澤賢治の代表作・「雨ニモマケズ」、この詩は、宮沢賢治が病気で死亡する1年前に書かれ死後公表されました。

まずは、読んでみましょう。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ 玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ䕃ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイフモノニ ワタシハナリタイ

 

現代風に書き換えてみます。

雨にも負けず 風にも負けず 

雪にも夏の暑さにも負けない 丈夫な体を持ち 

欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを自分を勘定に入れず

よく見聞きし 分かり そして忘れない
 
野原の林の下のかげの 小さなかやぶきの小屋にいて
 
東に病気の子供がいれば 行って看病してやり

西に疲れた母がいれば 行ってその稲の束を背負い
 
南に死にそうな人がいれば 行って怖がらなくてもよいと言い
 
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
 
日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
 
皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず
 
そういうものに 私はなりたい

 

利他の精神を以て現代を生きるのは、確かに難しいものです。
決して丈夫な体ではない病を持つ自分に嘆いたり、自分の利益を考え人に尽くしきれない歯がゆさ、信念があるのかないのか・・そんな自分と重ね合わせてみた時、救いを求めるように共感してしまう気持ちを持ってしまう方も多いのではないでしょうか。

それ故に詩の中の「理想の生き方」に、心惹かれるのかもしれません。

宮沢賢治には、農学校で親交を深めた「友」がいました。詩のモデル?

斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年〈明治10年〉2月20日 – 1968年〈昭和43年〉1月2日)は、岩手県東和賀郡笹間村(現在の花巻市)出身のキリスト教徒で、無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の忠実な弟子の一人、その死に至るまで身の回りの世話をした。 その人生は、『雨ニモマケズ』のモデルとも言われている。

内村鑑三との交流

日露戦争時、非戦論を唱え「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との主張によって、県当局からにらまれ小学校教員の職を失う。

その後は新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。晩年多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村に尽くし、死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。

宮沢賢治との交流

同郷で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた親交があり、賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新聞の集金に行くと賢治が招き入れ一緒に蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたといわれる。

賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。

 

斉藤宗次郎はもともと小学校の教師をしており、23歳で洗礼を受けました。彼は、岩手県花巻市で最初のキリスト教徒といわれます。

当時敵国の宗教ということで、キリスト教徒は「国賊」とののしられ迫害されていたため、洗礼を受けた斉藤宗次郎は花巻の人々からはものすごく冷たい目を向けられました。

そして他人だけでなく身内からもののしられ、親から勘当されてしまいました。

彼の娘(9歳)は学校でいじめられてお腹をけられ、その数日後に腹膜炎を起こして亡くなってしまったのです。そんなひどい時代もあったんですね。(現在でもいじめ問題は大きいが・・。)

彼は日露戦争に反対したため岩手県の教育会からは追放され、小学校教師の職を失いました。

その後、宗次郎は新聞配達店を営みながら生計を立て、病人を見舞い人のために祈り続けたそうです。 
 
彼は雨の日も風の日も雪の日も暑い夏の日も、休むことなく町の人たちのために祈り働き続けました。 
 
そんな生活をしながら、宗次郎は宮沢賢治と農学校で親交を深めていったのでした。 
 
そして、20年余の歳月が過ぎた頃、師と仰いでいた内村鑑三からの要請で上京する決心をしました。 
 
東京へ行く汽車に向かう当日、自分を見送ってくれる人なんていないだろうと思っていましたが、駅に着くと花巻の人々がたくさん見送りに来ていました。

そこには、一般の人の他町長をはじめ町の有力者、教師、祭主や僧侶の姿もありました。 
 
町の人々は、宗次郎が自分たちのために奉仕の精神で尽くしてくれていたことをしっかりと見ていたのでした。

 

そんな斉藤宗次郎の生き方を見ながら、宮沢賢治は何を思っていたのでしょうか。

この詩は、そんな宮沢賢治の心境を書き記したものなのでしょう。

東京へ行った斉藤宗次郎の元に、花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものだったそうです。

まとめ

宮沢賢治は、生徒たちといろいろな思いを語り合っていたようです。

「人間は一体何のために生まれてくるんだろう」・・そんな風に生徒たちに質問したことがあります。

生徒たちは思い思いの考えを賢治に語りましたが、賢治はこう答えました。

「何故生れてきたのか、それをしっかりと考えることが大切なのではないかと・・」

立場や宗教によってこれはいろいろな解釈もできますが、答えなんて案外シンプルなもので、文字通り解釈すればいいんじゃないでしょうか。

在るが故に在る訳で、小さな虫から草木一本まで無意味・不要な存在などは何一つない、動物・人間もまた同様。まさに、古代神道の考え方です。

生活に追われていた現役時代には漠然と考えていたことを、定年後は「賢治」のようにゆっくりしっかりと考えていきたいものです。

そんな訳で、アウトドアで山開拓で無心になりたいと思う。

 

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